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無条件の愛についてどのように感じますか?

聖書の中には神の愛について書いてあります。その愛と無条件の愛とは違いがあるのでしょうか?

私は有ると思います。

無条件の愛について知ったのは、スピリチュアルに参加してからです。それまではもっぱら聖書の世界の理解ばかりでした。愛は聖書の専売特許とばかり思う所がありました。ですから、聖書が述べる神の愛が最高の愛の姿が表現されているのだと思っていましたし、信じてもいました。

ところが、「無条件の愛」と言うのに出会ったのです。出会ったという表現ですから何か変な感じを受けないでしょうか?「出会う」と言うのは人に出会うと言うように使用するわけです。ですから、むしろ無条件の愛を知ったと言うべきではないかと。

神は愛である。この事は聖書の言葉からはっきりと語られています。ですから理解し知っています。

【新改訳改訂第3版】
Ⅰヨハ
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ここに記されているのは神が愛であることの宣言です。そして、互いに愛し合いましょうと勧めています。条件付き神の愛であります。神がこれほどまでに愛しておられるのだから、あなた方も愛し合う事を求めています。

新約聖書にしるされているのは、キリスト教の聖典ですから、聖書を経典にして信徒を導く関係が出来上がります。そこには、牧者と羊の関係です。キリストは直接的に何も書き残してはいないといわれていますから、その弟子たちが書き記した手紙などが編纂されて聖書の形になってきました。

キリストの弟子たちによって最初の教会、初代教会と言われる教会が存在していました。新約聖書にそれが残されています。その教会を維持していく為に、キリストについての教えを書き記してゆく必要性が生じて弟子たちが書いた手紙が新約聖書になっていったのです。

キリストの12弟子は使徒と呼ばれますが、誰でも使徒と呼ばれるわけではありません。「キリストの復活の生き証人」が条件です。ですから、初代教会時代は直接キリストに出会っていた使徒をはじめ多くの弟子たちが生存していたのです。ところが、時が経過することでそのような一世代の人たちが亡くなっていく状況でになり、語り伝える生き証人がすくなって来たので、文章化が必要になったのです。当時では口伝えに伝える方法が用いられていたわけです。

聖書の神の愛は条件付き愛であります。神の側に条件は無く無条件の愛であると思いますが、キリスト教の経典である聖書には、人には愛する事が求められています。何を愛するのでしょうか?

【新改訳改訂第3版】

[ 20 ]
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。

これは、モーセの十戒です。ここにあるごとく神を愛する事です。ここでの神とは旧約の神であり、モーセが荒野で出会った神です。モーセは荒野で妻のしゅうとの羊を飼って神の山ホレブにやってきた時に、「燃える芝」を見つけたのです。不思議な事に燃え尽きないのでその傍に行くと、柴の中から神は語り掛けたのです。これが神とモーセとの出逢いです。

この時に神はご自分の名を名乗りました「わたしはある」という者である、と。

【NKJV】
Exo
3:14 And God said to Moses, “I AM WHO I AM.” And He said, “Thus you shall say to the children of Israel, ‘I AM has sent me to you.’ ”

【TEV】
Exo
3:14 God said, “I am who I am. You must tell them: “The one who is called I AM has sent me to you.’

【口語訳】

3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

【新改訳改訂第3版】

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

【新共同訳】

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

旧約聖書の神です。ここに現れた神と新約聖書の神であるイエスキリストには隔たりがあります。神の性質が同一の神には見えません。キリスト教では神を三位一体の神として父、子、御霊が一つであると教えます。父は旧約の神、子はイエスキリスト、聖霊はキリスト昇天後に遣わされて来た助け主という位置づけです。

人で言えば別人です。性格も違いますし、旧約の神が行ってる事は人と変わりません。自分に従わないものに対しては殺してしまいます。それは、神自ら選んだというユダヤ民族につてもです。神のおきてに従わないものはユダヤ民族であろうと、他の民族であろうと殺してしまいます。旧約における愛は条件付き愛であると言えます。従わない者には神の裁きがあるのです。

では、新約聖書にみるキリストの教えの愛はどのようなものなのでしょうか・?

キリスト自ら十字架にかかられ、神の裁きを人類に代わりに受けられたと言うのです。この十字架こそが神の愛の現れであると聖書は語ります。キリストを試て言葉の罠にかけようとしてやって来た律法学者が尋ねます、キリストは次のように応えています。

【新改訳改訂第3版】
マル
12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

キリストが教えた愛は旧約聖書の申命記6章からの引用です。

【新改訳改訂第3版】

6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

キリストはこの箇所からの言葉を教えたのです。これは、イスラエル民族の教育の原点ともいうべく箇所なのです。ですから、イスラエル人は当然に教えとして誰もが知っている戒めでありました。

ここに記されてる愛は神に対する愛と隣人に対する愛です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」はレビ記からの引用です。

こうしてみると、キリストの説いた愛も結局のところは旧約の域を出ていないと言わざるを得ないのだと。

聖書にある神の愛について検討して見ましたが聖書にある愛は結局のところ条件つきの愛であります。最後はメシアであるイエスキリストへの信仰に繋がっていきます。見返りがそこには存在します。

「無条件の愛」は宇宙からもたらされた愛です。

スピリチュアル的な愛であります。この愛の発信元は明らかに聖書とは違います。宇宙を神と呼ぶのも良し色々の受け止め方があると思います。しかし、今のところは宇宙がふさわしいと思います。これはスピリチュアルの世界での表現が現在「宇宙」としているからだと思います。出版関係者がこれを採用しているからなのだと聞いた覚えがありますので。日本ではスピリュアルを扱う中で「神」と言う表現はまだ受け入れられていない状況だという事の様です。

無条件の愛に出逢ったと言う表現をしましたが、それは聖書を読んで神の愛を知ったという知的な理解ではなく、人格の愛として訪れて来たという事です。愛が心に満たされたのです。その時に、知ったのです無条件の愛が存在することをです。

この理解は魂レベルでの理解です。だからこそ、宇宙からの愛であると思います。

この宇宙的な愛については、ハイヤーセルフやガイドたちの助けが必要です。今後、この「無条件の愛」について理解を深めていきたいと思います。現時点で考えられることは次元の違う愛ではないかという事です。

この「無条件の愛」について教えていただきたいと思いっていますので理解されてる方ご教示いただきたいと思いますので宜しくお願いします。

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