ギリシャ語はもっとも豊かな言語の一つであり、言語のもつ意味を表現する力はほかに匹敵するものがないのです。一つの概念をあらわす言葉が、英語では一つしかないのに、色々なニュアンスの言葉をいくつも持っています。

英語ではあらゆる種類の愛を表すのに一つの言葉しかないの対して、ギリシャ語では四つの言葉があります。それでは、最初の言葉は、名詞のエロ―スで、動詞はエランです。ここの言葉は性的な愛に関係があります。この言葉は新約聖書には出てきません。

二つ目は名詞のストルゲー、動詞のストルゲインは特に家族間の愛情に関係があります。親が子に対する、子が親に対する愛を指します。新約聖書には1回だけ出てきますローマ書12章10節「兄弟の愛を持って(口語訳)」であります。

三つ目は名詞のフィリアと動詞のフィレインで、ギリシャ語の愛として最も一般的に用いられています。この語には快い暖かさがあります。友情や夫婦間の愛に用いられます。フィレインのもっともよい訳は「いつくしむ」です。肉体的な愛も含みますが、真の愛情、愛の温かさが満ちてる言葉です。新約聖書では、父、母、むすこ、娘に対する愛(マタイ10章37節)イエスのラザロに対する愛(ヨハネ11章3、36節)、イエスの弟子たちに対する愛(ヨハネ20章2節)等があります。

四つ目は名詞のアガペー、動詞のアガパンで、新約聖書で一般的な愛として使用されています。しかし、このアガペーは古典的に使用されてはいません、旧約聖書偽典「アリステアスの手紙」で美につて語ってる中で敬虔は美と密接に関係してると言っています。なぜなら「それは美の主なる形であり、その力は神の賜物である愛(アガペー)の中にあるからである。」として用いられている程度で旧約時代はまだこの言葉は出てこないのです。

古典ギリシャ語におけるアガパンとフィレインの違いはアガパンにはフィレインの特徴である温かさが少しも無いということです。このようにアガぺーは感情ではなく、堅い信念であり、積極的な意志による成就、克服、そして勝利であり心情ばかりではなく精神と意志を必要としているのです。

新約聖書でアガペーは約120回、アガパンは130回以上用いられています。「キリスト教の思想がアガペーに固定した大きな理由は、全人格的な働きを必要とするからです。

キリスト教の愛は、最も近い者、親しい者、血縁の人々、友人、わたしたちを愛する人々に限らず、キリスト者の交わり、隣人、敵対する人々から全世界にまで及ぶものでなければならないからです。(『新約聖書ギリシャ語精解』W.バークレー著、滝沢陽一訳1974年10月5日3版発行)

アガペーは神の愛を表しています。神の愛の箇所を以下に引用します。

【新改訳改訂第3版】
Ⅰヨハ
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

【NKJV】
1Jo
4:7 Beloved, let us love one another, for love is of God; and everyone who loves is born of God and knows God.
4:8 He who does not love does not know God, for God is love.
4:9 In this the love of God was manifested toward us, that God has sent His only begotten Son into the world, that we might live through Him.
4:10 In this is love, not that we loved God, but that He loved us and sent His Son to be the propitiation for our sins.

以上はギリシャ語に見る「愛」の言語による違いです。では、これをスピリチュアル的にはどのようにみたらよいのでしょうか?

宇宙の中心にあるのは神的存在です。ですから宇宙と呼んでいるものも、神と呼ぶのもみな同じ存在であると私は解釈しています。

一つ申し上げたいことは、信仰心と宗教の違いです。人は誰でも信仰心を持っています。特に日本人は神的なものに対する感性が優れてる民族であると思っています。怖いのは宗教なのです。純粋な信仰心をもっていくのは良いのですが、宗教という形になるとどうしても排他的になります。自分の信ずる神や宗教が一番良いのですから。

外国人からすると信じられないようですが、日本には八百万の神々が存在しているのです。この神観念は理解できないようです。特に聖書を背景にする民族は一神教であるからです。信じる神以外はみな偶像であり神ではないのです。外国人からするとその違いが理解できないのです。

日本人は幸いに、ユーラシア大陸の東のはずれのさらにその先の島国です。チグリス・ユーフラティス文明やナイル川のエジプト文明からするとはるか東のはずれになるのです。文明はシルクロードを通って西から東へ向かったと言われてるのが大方の考えです。

しかし、それとは逆の日本から西へ文明は向かったと言う説もあります。日本の縄文時代15000年の歴史があるのですから、江戸時代は世界一の文化、人口、識字率、美しい町、衛生観念、循環型社会、庶民が幸せに暮らしている。当時このような国はどこにもありませんから文字通り世界一の文明国と言えます。まさに日本こそ文明の発祥と言えるのではないでしょうか?

現代の日本人の認識が誤っているのは、戦後教育に原因があります。日本と言う国を正しく教えていないからです。日本を逆に貶める教育をしていると思います。日本は戦争に負けたことが無い国です。ただ一度、大東亜戦争(太平洋戦争)で負けただけです。もう70年も過ぎ去りました。日本人はたった一度負けたことで、すっかり日本人としての気概を失ってしまったように見えます。

教科書問題では近隣諸国条項とかいうバカげた配慮を中国、韓国にしなければならに状況にあります。このような状況が続くのでは正しい歴史認識、教育も憚(はばか)れるのです。

少し脱線しましたが、日本人の八百万の神を信じる信仰心は素晴らしい感性です。固定した一神教の神信仰ではありません。ここが、素晴らしいのです。日本人は八百万の神々と仲良くできるのですが、外国の一神教信者は一つの神としか仲良くできないのです。この違いは大きいのです。

仮に日本が世界を治めるとしたら万民がそれぞれの考え方や価値観を持って生活をすることが出来る社会をめざせると思います。しかし、一神教ここには共産主義も含まれますが世界を治めるようになった場合は個人の価値観や自由は無くなると思います。

信仰心の感性と宗教には明確な違いがあります。良く日本人は無宗教でと外国人からは評されてしまいます。なぜなら、一神教を信仰する人にとっては、日本人の宗教観は理解できないのです。日本人にとって生まれたときは神社へ、お正月は神社やお寺へ初詣、お盆が来れば墓参り、結婚式は教会でと何でも良いのです。かといって信仰心がないのかというとそうではありません。一つの行事にきちんとこころを合わせて拝んでいるのですから。

例えばアメリカにホームステイしたとします、その時あなたの宗教は何かと聞かれたとします、その時の日本人の答えは「ありません」「無宗教です」と答えるのではないでしょうか。

大方の日本人は信仰心は持っていますが、明確な宗教は持っていないと言えるのでは無いでしょうか。お墓の関係から家の宗教があって先祖崇拝はあり、お寺に檀家として連なっていますが、一神教のように礼拝を毎週行う事はおそらくありません。

信仰心と宗教はこれで終わりにして、スピリチュアル的には神の愛をどう理解するかですが。宇宙と言っても良いですし神と言っても良いと思っています。宇宙の本質は愛であると思っていますので、どちらも本質は愛なのですから、違いはなく、表現の違いと思っています。