「決意」と「宣言」の続きです。
自分自身に向けて宣言する。親しい人に宣言する。ブログで宣言する。自分のセルフイメージだけでなく周りの人に宣言することで、その人のうちに種がまかれるので、他人の心の中に意識が植え付けられて応援してくれるように巻き込んでいくことが出来ますと言うのですが、「宣言する」ことで自分自身に対しても心が定まるといいますか、決意が固くなるといえるのではないでしょうか。
ただ自分の心の中だけで決意するのと、親しい人に対して宣言するのでは気持ちの上で大きな違いはあります。第三者に伝えた場合は頑張らねばと言う気持ちが働きます。人の目を気にするからです。しかし、自分だけでしたら途中で困難があったら辞めてしまっても誰か他の人からの目、評価を気にすること要りません。
しかしここに落とし穴があります。自分だけだからそんなに気にする必要はないと言うように、こころの弱さを経験したときに安易に辞めてしまったり、こころの声を聞きながらもその声に従う事をせず無視し続けると、それは自分自身に対して自分自信を見捨てる行為となっていくのです。そのことにより自分自信に対する自信を喪失してしまい、「自信」を築けなくなってしまいます。それは当然セルフイメージも低くなってしまうのです。
何があっても見捨てないと決意する。何がっても自分自身を見捨てないと決意する。何があっても内面にいるインナーチャイルドを見捨てないと決意する。すなわち内面の自分自身を何があっても見捨てないと決意する。この決意が自分自身を裏切らない信頼の関係を築いていくことになると言うのです。
まだ、私は実感としてこの事は理解できていない分野です。言えることは、自信という事やセルフイメージの低さを感じていますので、このセルフイメージを上げないと、自己目標である「自由な生き方」の実現が遅れてしまいます。
自己卑下の癖を持っているのです。最近この事に気づいてきました。何かを発言する時に、自分をわざと見下げた言い回しをするのです。これは、良くないと気づきました。このような自己卑下の思考の癖は即捨てます。いや捨てました。手放すという言い方もあります。これからは、もっと、セルフイメージを引き揚げて、自信にあふれたセルフイメージを描いていかないと発展がないのではと思っています。
ですから、思考の癖思考の習慣を変える必要があります。今回このように気づいたのですから、この自己卑下の癖は早速改めます。自分で自分を貶めた言い方をして何が益になるのでしょうか?どこからこのような習慣を身に付けたのでしょうか?それは、誤った謙遜を身に付けてしまい思考の癖になってしまったのではないでしょうか。
その行動が、謙遜の美徳と思い込んでしまっていたという事が、今まで癖に気づかない状態を継続させてきてしまったのではないでしょうか。一つの価値観の中で生きていると気づかない癖を身に付けてしまっていて、同じ価値観の中で生きているために比較するものがありませんから、自ら持っている価値観に対して客観的に判断するという作業が難しくなるのです。
私は、スピリチュアルの世界に自ら足を踏み入れて、新しい世界に飛び込んでいきました。それは、私自信の内面からの声にうながされて取った行動であったのではないかと思っています。なぜ、この道を選んだのか理由はありません。ただ、気が向いたとしか言いようがありません。
そして、新たな世界に触れることで、新たな経験と価値観を見出している所です。この、価値観からすると誤った謙遜が見えて来たと言えます。この誤った自己卑下というものは、セルフイメージを下げてしまうモノであり、決して自己実現のエネルギー循環の法則からしても発展的なエネルギーに変換することには繋がらないと思われます。