松下村塾

松陰

吉田松陰は天保元年(1830年)萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、幼名を虎之助といいました。四歳の時軍学者筆頭の家柄である田家の養子となりました。養父であり叔父でもあった大助が亡くなったので、松陰は六歳でそのあとをつぐことになりました。この年松陰は名を大次郎と変えます。

田家をついだ大次郎は、毛利藩の兵学の先生という身分になります。そして、十一歳の時殿様(萩藩十三代藩主毛利敬親)の前に出て兵学の講義をしました。殿様から「みごとであった」とわざわざおほめを頂いたという事です。ですから、松陰は幼い時から学生でありながら教師でもあったのです。

松陰は九歳の時に、家学教授見習という名で、藩校明倫館へでました。これは、田家が兵学を教える役目で松陰があとを継いだからです。そして、家学師範という役目で一人前の先生として明倫館にでたのは十九歳の一月でした。

松陰の遊学、九州方面

二十一歳の八月、許しを受けて初めて藩を離れて九州に遊学しました。長崎、平戸、熊本。特に平戸には長く滞在して山鹿万介(平戸藩士、兵学者)、葉山佐内(はやまさない、平戸藩士、陽明学者)の影響を受けました。当時のアヘン戦争をしり国防の大切さを強く考えるようになりました。こうして、百二十日あまりにわたる九州遊学は、松陰の考えを一変させ時代の動きを深くとらえるようになりました。

翌年三月には、殿様のお供をして江戸に留学することになりました。そこでは、兵学者佐久間象山(さくましょうざん)の新しい考えには強く心ひかれました。

東北への遊歴

そのころロシアの船が北方の海に現れたことを聞いた松陰は、九州遊学の時に知り合った宮部鼎三(みやべていぞう、熊本の兵学者)とともに、東北遊歴の計画を立てました。藩に遊歴の願い出して許可を得ましたが、手違いで通行手形がおくれたので、とうとうそれを持たないまま、十二月十四日江戸を出発しました。

途中水戸にたちより水戸学をい学び日本歴史の大切さを知りました。東北の冬は雪に覆われ大変でした。会津若松、新潟、佐渡を経て、日本海沿いに北上し、ついに本州の北端、竜飛崎の近くまで到達しました。松陰は、荒波の津軽海峡を隔て、松前の連山を目の前にして、北辺の守りの大切さを強く感じました。

藩の謹慎命令のため江戸から萩の杉家へ

こうして百四十日の旅を終えて、四月五日江戸に帰りました。松陰は藩のおきてを破った罪を覚悟していました。そのご、松陰は国本へ帰国を命じられ、杉家で謹慎して藩の処分を待ちました。

十二月、松陰は亡命の罪で藩士の身分をうばわれ、同時に明倫館の先生もやめることになりました。このことにより、いままでのように藩外で学ぶことが出来なくなりました。

寛永六年(1853)年六月三日、ペリーの軍艦四隻は浦賀にやってきた。

「太平のねむりをさます じょうきせん たった四はいで よるもねむれず」

日本人は黒船と呼んで、大変恐れ、上記ののような歌が詠まれました。ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府に手渡し、開国を求めて来ました。そして、来年もう一度日本に来てその返事を聴く事を告げて去っていきました。

松陰は再び許可を得て江戸に出たばかりの時に、この大事件を聞き、早速浦賀に行き、佐久間象山等と黒船の様子を詳しく観察しました。

そのころ、土佐の漁民で中浜万次郎(なかはままんじろう)という人が、漂流中をアメリカの舟に助けられ、長くアメリカに滞在したのち、日本に帰ってきたという事件がありました。しかし、たいした罪にもならず、かえって幕府に召し出されたといううわさがありました。

これらのことがあり、松陰は長崎にロシアの船が来ていると聞き、漂流のかたちでこの船に乗り込もうと計画して九州に赴く、既に舟は出港した後でした。そのため第一回目の海外渡航は失敗しました。

そして、翌年安政元年(1854年)ペリーは七隻の軍艦をひきいて再び日本の下田沖にやって来ました。そして、幕府の重臣たちはアメリカの要求を受け入れ三月三日、日米和親条約に調印がされました。

さしせまつた日本の危機はひとまず逃れることができましたが、松陰は外国勢力のことを思うとこれからの日本の生末が心配でなりませんでした。今度こそなんとか外国へ渡ろうと決心したのです。

下田沖のペリー艦隊へ、二度目の海外渡航を実行

松陰は、同郷の金子重輔(かねこじゅうすけ、しげのり)と共に、下田沖に停泊している軍艦に乗り込む計画を立て実行に移す。③三月二十七日風の強い夜、ふたりは柿崎の海岸で小舟を見つけて波風の強い海へこぎ出しました。そして、旗艦にやっとのことで乗船しました。そして、事情を伝えるのですが、聞き入れられませんでした。それは、現在日本人は外国へ行くことは固く禁じられているからとの理由でした。

「わたしたちは国のおきてを破ってやって来いました。このまま帰ればきっと殺されます。」とつたえるもやはりだめでした。

野山獄

江戸幕府は徳川家光のときに、鎖国のおきてをつくりました。これは、日本から海外へ出てゆく事も、海外から日本へ入って来ることも禁止した決まりで二百年あまりも続きました。

二人は夜の明けるのを待ち、自分たちのしたことを自首しました。ふたりは、下田から江戸送りになりしばらく江戸の獄に入れられていました。間もなく幕府から国元へ蟄居(ちっきょ、江戸時代武士に与えられた閉門、きんしんなどの刑罰)を命ぜられ、萩に送り返されました。

安政元年(1854年)十月二十四日、二人は萩に到着しました。武士であった松陰は野山獄(のやまごく)、身分の低かった重輔は岩倉獄(いわくらごく)に入る事になりました。互いの獄は道を挟んで向かい合っていました。しかし、重輔は三か月あまりで二十五歳の若さで獄中死をしました。

野山獄の松陰

獄に入れられるとたいていの人は生きがいを失い、やけを起こしがちになりますが、使用員は違っていました。やけをおこすような人は、自分を大切にしない人だと考えていました。そしてつぎのように考えていたのです。「獄では行動は自由に出来ないが、心は自由である。本を読んだり、ものを考えたりするには、最もよい所だ。」

そこで沢山の本を読もうと決心し、兄や友人に頼んで読みたい本を届けてもらいました。それらの本は歴史、地理、伝記、兵学、医学、政治、道徳など広い範囲に及んで野山獄にいた一年二か月の間に読んだ本は約六百二十冊で月平均四十数冊の割合いになります。

野山獄には十一人の囚人がいましたが、二十六歳の松陰が一番若い囚人でした。これらの囚人ははじめは松陰に近づきませんでしたが、次第に松陰の偉さが分かり始めると「私たちに何か教えてくれませんか」と誰彼となく自然と申し出るようになりました。そこで、松陰は長い獄生活で希望を失い心がひがんで、まいにちぐちばかり言っている彼らに、なんとか生きる希望を持たせたいと思いました。

そして、中国の孟子のことばをかりて、人間が生きていくことの意味や、人間として守らねばならない道の大切さなどを話しました。そして囚人が変わっていく様子を見ていたろう役人も、松陰の立派な人となりを理解し、「こんなりっぱな先生をいつまでも獄にいれておくのはいけないことだ。」という声があちこちからあがり、藩も松陰を獄から出すことにしました。

それは、安政二年の年の瀬十二月十五日の事でした。野山獄の生活は、松陰にとっては松下村塾での教育の土台となりました。

松下村塾

これが現在の松下村塾です。松陰の実家である杉家に八畳間の一戸建からはじまり、手狭になり十畳間を増築したようです。

安政二年(1855年)十二月、一年二か月にわたる野山獄での生活を終え松陰は許されて、父、母のいる杉家へ帰ってきました。そして、謹慎生活が始まります。松陰は三畳半の狭い部屋に閉じこもりました。そこで、父、兄、親類の久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)の三人は、松陰が野山獄で講義をした「孟子」の残りを完成させることをもい立ちます。そして父たちが講義を聞くという事になります。

間もなく安政三年の新年を迎え、松陰は二十七歳になりました。これからの二年半は松陰にとって最も平和な時期です。松陰はひたすら、読書や物書きをしました。三月になり講義を聴くのは親類の者たちです。この年の六月に「孟子」の講義が終わります。後にこの講義がもとになって出来あがったのが「講孟余話」という本です。

この講義が終わるころには、若者たちが増えてきました。このころ、久保五郎左衛門の塾のために、「松下村塾記」を松陰は書いています。

松下村塾

松下村塾は、松陰の叔父玉木文之進が松本村に塾を開き、地名をとって松下村塾といったのが始まりです。松陰が十三歳の時でした。その後玉木文之進が忙しくなり教えられなくなり、塾は一時すたれましたが、親類の久保五郎左衛門が自分で開いた家塾に松下村塾の名前を付けました。

ところが、松陰が野山獄から帰り、幽囚室にいるようになって、学問のある松陰をおのままにしておくのはおしいということで、せめて家族や親類だけでも講義を聞こうではないかとのことで、講義が開かれるようになりました。そして、松陰による松下村塾が始まりました。

教えを受けに来る者が次第に増えて来たので、屋敷のうちの小屋を修理して八畳一間の部屋を作りました。その後、門人が増え控室を一棟建てることになりました。萩の町から古家を買ってきて、先生と塾生が助け合って十畳半の建て増しをしました。それが現在残っている松下村塾の建物です。

門下生

松陰が教えたのはわずか二年半でしたが、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、田栄太郎(よしだえいたろう)、入江杉三(いりえすぎぞう)、伊藤博文(いとうひろぶみ)など立派な人がたくさん出ました。

松陰再び野山獄へ

安政五年(1858年)十二月二十六日、再び野山獄へ入れられました。「松陰の学問は人の心を惑わすものである」との理由でした。それは、幕府に反対する人をとらえたり、厳しく取り締まっている老中間部詮勝(まなべあきかつ)を倒そうと計画し、藩に申し出ていたからです。

そして、江戸からの呼び出しがかかったので、五月二十五日松陰は萩を後にして江戸へ向かいます。三十人ばかりの護送役人に取り囲まれて出発します。やがて萩の町はずれ、大屋の涙松に差し掛かります。ここは萩を見下ろす丘の上で、遠くへ旅する人が別れを惜しんだり、遠くから故郷に帰ってきた人が喜びの涙を流すと言う所です。

護送役人はかご」を止めて戸を開けてくれました。松陰はなごりおしげに萩城下を眺めていましたが、やがて一首の歌をよみます。

かえらじと思い定めし旅なれば  ひとしおぬるる涙松かな

再びかごはあげられ、しとしととふる雨の中を静かに進んでゆきました。このあと一月にわたる道中での歌を集めたのを「涙松集」(るいしょうしゅう)といい、詩を集めたものを「縛吾集」(ばくごしゅう)と言います。

松陰の最後

安政六年(1859年)十月二十七日、「留魂録」を書き上げた翌日です。朝早くろう役人の呼び出しの声を聞いた松陰はふところの紙をだして

此の程に思い定めし出立(いでたち)は きょうきくこそ嬉しかりける

と絶筆の歌をしたためました。評定所での申しわたしは、予想どおり死罪でした。松陰は覚悟のことでしたから少しも驚きません。「申しわたしの儀、委細承知仕りました。」とこたえると、付き添いの役人に向かい、「長い間、ご苦労をかけました。」とやさいいことばをかけることを忘れませんでした。

そして、役人にせきたてられくぐり戸を出ると、声高らかに次の詩を吟じました。

吾今くにの為に死す、死して君親に負(そむ)かず。 悠々たり天地の事、鑑照(かんしょう)、明神(めいしん)にあり。

「わたしはいま、国のために死ぬのである。死んでも君や親に坂らったとは思わない。天地は永遠である。わたしのまごころも、この永遠の神が知っておられるから、少しもはじることはない。」

正午近いころ、伝馬町の獄に帰り、着物を着がえ、刑場へ引かれていきます。その時、松陰は同じ牢屋にいる人たちに別れのあいさつのかわりに、「留魂録」のはじめにある「身はたとい・・・」の歌と辞世の詩「吾今国の為に死す・・・」を高らかに吟唱しました。その落ち着きはらった態度に役人たちも深く心打たれました。

獄内に作られた刑場に着きました。松陰は服装を正し、ふところから紙を出してはなをかみ、心静かにすわって目を閉じました。首切り役の浅右衛門があとで人に話したところによると、「自分はこれまでに多くの武士を手にかけてきたが、これほど最後のりっぱな人は見たことがない。」と言ったということです。

こうして、松陰は、数え年三十歳で刑場の露と消えました。しかし、松陰の志を受け継いだ人々によって、明治の新しい時代がつくられ、いまの日本のもとが出来上がったのです。

転載元:『松陰読本』山口教育委員会

十月十六日、取りし調べを受け自分の資材を感じ取った松陰は父、叔父、兄にあてて別れの手紙を書きます。この手紙には、杉の実母と養母にあてた文も書いてありました。「わたしの学問修行が浅いため、至誠がその力をあらわすことができず、幕府の役人の考えを変えることができませんでした。」と書き出し、次の歌が続きます。『親思うこころにまさる親ごこころ きょうの音(おと)ずれ何ときくらん』(下の石碑に刻まれて田松陰神社境内にあります)

以上、松下村塾と田松陰についてまとめてみました。

パワーストーン