神其(その)像(かたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり即(すなわ)ち神の像(かたち)のごとくに之を創造(つくり)之を男と女に創造(つくり)たまえり(創世記1章27節,文語訳)

人には神の種が埋め込まれていると私は思っています。聖書の創世記1章から11章までの記事に秘められていることが人を理解するうえで大切なことが比喩として記されているのだと気づかされました。

聖書を読んで、そればかりか神学校にて学びそれなりに生きてきました。しかし、スピリチュアル的な解釈はしておりませんでしたから、いわゆる既成概念の宗教としてのキリスト教理解の範疇から抜け出せていませんでした。

しかし、不思議な導きで現在はスピリチュアルな世界観から改めて聖書を見るようになりました。そこから見る世界観からは、自由な発想が生まれて来ますし、ひらめきが訪れてきます。

感覚的理解の世界です。しかし、それは宇宙と繋がった世界観であります。そこに教えられる上から下って来る感覚的理解は、聖書理解の真理に通ずるものであると理解します。

それは、聖書のピュアな部分を解き明かしてくれるものであり、脚色された宗教色を排除した本来の神が伝えている真理に繋がるのでないかとさえ思っています。

何が根拠にしているのかと問われても、これですとの根拠を示せるものではありません。私の理解は感覚的理解なので実に私の主観的解釈なのであります。文献的知識ではなく感覚的、感性の知識なのです。すなわちスピリチュアル的な知識と言えると思っています。

なぜなら、そのようなスピリチュアルな道に歩んでいるからです。これは、神の導きです。

人にはそれぞれに働きの使命のようなものがあります。

私にも使命があります。今までそれが何であったのか、意識した事はありますし、明確に受け取ったこともあります。しかしながら、自分の人生で過去2度その使命として受け取った聖書のみ言葉があります。この事については、わたしのプロフィール(ストーリー)の中に書いていますので、興味のある方はそちらをご覧ください。わつぃが神学校に入学する召命のみ言葉が2つ書いていますそれが、牧師になる決意のみ言葉でしたし。いわば、使命として牧師になることを促した言葉体験です。

しかし、ここに来て新たな展開が起きてきました。それが、サイキックリーダーというスピリチュアルな世界に導かれたという事です。何故この世界に、いや、サイキックリーダー問う事に惹かれたのかは自分自身として理解はできません。感覚的な衝動によって動かされたと思うのです。

それは、私の顕在意識での分野を超えた世界からの導きです。

ハイヤーセレフの導きであったと思っています。私をハイヤーセルフが見守っていてくれますように、誰でも、どなたにもわたしと同じようにハイヤーセルフが見守り導いていて下さっております。

そのことを知るには、自身がスピリチュアルな意識を持たなければ、理解しがたいのでハイヤーセルフを知る事は出来ません。かといって、ハイヤーセルフがあなた自身を見守っていないという事はあり得ません。だた、あなた自身が気づかないだけなのです。

私の場合は、丁度1年目に気付いたのです。

私がスピリチュアルなサイキックリーダーに導かれたのは、あらたな仕事を模索していたさなかにフェイスブック(公告)で見たのが始まりでした。興味がある内容になっていてサイキックリーダーとうあらたなビジネスも可能であるとの事でした。これが、始まりです。

始まりは、何に興味や関心を抱いているかによります。関心は人それぞれです。それで良いのです。何故なら、あなたの人生はあなたが決めて良いのです。興味のあること、関心のあること、好きな事、したいとお持つている事など自由に生きて行けば良いのです。

私のうちに神の種が植えられている。

そのように思っているのです。サイキックリーダーとして学び、サイキック感覚を磨いていくうちに気付き始めたのはこの事です。それは、冒頭に掲げた聖書の言葉に有るように、人は神の像に創られたという事です。そして男と女とに創造されたと言うのです。

聖書の神が人を創造したとき、神の像は男と女とで即ち一対の関係の中にあるという事です。

男と女、陽と陰の関係です。宇宙はまさに陰と陽の関係であると言われます。子のかかわりの理解が、人の理解につながるのだと今は思うようになってきました。さらに、理解を深めていきたいと思います。

宇宙意識、神の導きを求めながら。