写真は富士山です。この写真は個人研修で九州へ向かう時に撮った富士山です。この日はとてもきれいな富士山を見ることが出来ましたので思わず写真に納めました。富士山は日本の象徴ですし、ちょうどこの写真は翼に日の丸が写っていて日本と富士山が一枚の写真に納まった良い写真だと思います。

富士山は3776mの日本一高い山でありとても美しい山です。その美しさは左右対称である事と、稜線の広がりが美しさを創りだしていると思います。

さて、心の美しさは愛であると思います。そこでまず「美」の漢字は、「羊」と「大」の合成で出来ています。この「羊」は犠牲として神にささげられ、傷の無い完全な羊でなければなりませんでした。こうして漢字の組み立てから見る「美」には大いなる犠牲と言う意味が込められているようです。

自己犠牲と美の関係があるのかもしれませんね。美しさの陰には見えざるところでの犠牲が存在しているのかも知れません。

愛についてもそのことが言えると思います。美しさが自己犠牲の要素を含んでいるとするならば、愛にもその要素はあるのだと思います。「愛」の漢字には「後ろを振り返って」というしぐさが込められてるようです。「頭を一生懸命巡らせる人」「心臓」「足」の象徴から「大事、大切にする、好きな気持ちが相手に及ぶ」事を意味する(okiten.jpより))ようです。

他の辞書には愛とは、人がゆっくり歩きながら後ろを振り返ろうとする心情を表す漢字(bookstand.webdoku.jpより)とあります。

名前辞典には愛の意味として、かわいがりいつくしむ。思いこがれる。いとおしいと思う気持ち。二つとない対象を大切にする。大事なものを手放したくないと思う(b-name.jp)とあります。さてこれらの事から、改めて愛について調べてみて気付いたことは、「後ろを振り向く姿」が愛という漢字の中にはあるという事です。そこから、過去を振り返ると言うことが愛の意味にあると解釈してる方もいて大変意義深いことだと思いました。

私は、「後ろを振り向く姿」を過去の出来事への回顧と解釈し、思い出の一つひとつを思い起こしてる様が愛なのだと思います。当然、その思いでの対象があり出来事があります。それらの一つ一つが大切な思い出であり、その出来事に登場する対象者への思いがいとおしと思う気持ちであったり、大事な人を手放したくないと思う気持ちになっていくのだと思いまいます。

親が子を愛する姿の中に美しくあらわされていると思います。親の漢字は木の上に立って見てる姿から来ているようです。まさにその姿として一つの物語に描かれているのでご紹介します。新約聖書の「放蕩息子」の譬えですが、ここに父親の息子に対する愛が見事に描かれています。

【新改訳改訂第3版】
ルカ
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

【NKJV】
Luk
15:11 Then He said: “A certain man had two sons.
15:12 “And the younger of them said to his father, ‘Father, give me the portion of goods that falls to me.’ So he divided to them his livelihood.
15:13 “And not many days after, the younger son gathered all together, journeyed to a far country, and there wasted his possessions with prodigal living.
15:14 “But when he had spent all, there arose a severe famine in that land, and he began to be in want.
15:15 “Then he went and joined himself to a citizen of that country, and he sent him into his fields to feed swine.
15:16 “And he would gladly have filled his stomach with the pods that the swine ate, and no one gave him anything.
15:17 “But when he came to himself, he said, ‘How many of my father’s hired servants have bread enough and to spare, and I perish with hunger!
15:18 ‘I will arise and go to my father, and will say to him, “Father, I have sinned against heaven and before you,
15:19 “and I am no longer worthy to be called your son. Make me like one of your hired servants.” ‘
15:20 “And he arose and came to his father. But when he was still a great way off, his father saw him and had compassion, and ran and fell on his neck and kissed him.
15:21 “And the son said to him, ‘Father, I have sinned against heaven and in your sight, and am no longer worthy to be called your son.’
15:22 “But the father said to his servants, ‘Bring out the best robe and put it on him, and put a ring on his hand and sandals on his feet.
15:23 ‘And bring the fatted calf here and kill it, and let us eat and be merry;
15:24 ‘for this my son was dead and is alive again; he was lost and is found.’ And they began to be merry.
15:25 “Now his older son was in the field. And as he came and drew near to the house, he heard music and dancing.

15章20節の「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」とあるように、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけとあるではありませんか。息子が旅立ってから、父親はいつ返って来るのかと息子が旅立った方向をいつも見ていたのだと想像します。今日は帰って来るか、今日は帰ってくるかと待ち望んでいたのです。

だから、聖書は「まだ家までは遠かったのに」と言っているのです。父親が先に息子を見つけたのです。ここに父親の愛の表れとして見ることが出来ます。ここには父親の変わらぬ愛の姿が、いつ帰って来るとも分からない息子の帰りを信じて、一日千秋の思いで待ち続けてる父親の姿の中に読み取る事が出来ます。

父親が息子を待ち続けていた間、息子と過ごした日々の事をきっと思い出していた事だと思います。この姿が愛する者の姿なんだと思います。そこには、息子への信頼があります、必ず帰って来るとのゆるぎない息子への信頼です。

私もこれを機会に、愛と信頼で生きていきます。