NHK大河ドラマ「西郷どん」第30回「怪人 岩倉具視」を見て

昨日のNHK大河ドラマ「西郷どん」第30回「怪人 岩倉具視」が放映されたので見ました。最近になって見始めたばかりでので、今までのストーリーは分かりませんが見始めると面白いもので毎回見たくなります。それで、昨日も見ました。

2018年は明治維新からちょうど150年となる節目の年であり、それに合わせて「西郷どん」がNHK大河ドラマ57作目として放送されているようです。

薩摩の貧しい下級武士の家に生まれた西郷吉之助(隆盛)の愚直に生きる姿に、藩主島津斉彬の目に留まり西郷は密命を受けて江戸、京都と奔走する。勝海舟、阪本竜馬らとの盟友に出会い明治維新をを成し遂げていく・・・内容で、毎週日曜日午後8時より放送。

昨日の放送で、西郷どんは、閉居中の岩倉具視(笑福亭鶴瓶)宅に居候、これからの時代は倒幕により新しい時代を切り拓く以外にないと決意している西郷。西郷は偶然に、岩倉具視の書き貯められた書状を見つける。その内容は、西郷と同じ倒幕の必要な事が書かれていた・・・・。そのくだりあたりで、西郷どんの「天命」という語りの部分が出て来ました。

天命と言う言葉に感じたこと

私はこの「天命」と言う言葉に、こころに響くモノがありましたので今日はこの天命について感じたた事を記したいと思います。確か西郷どんは明治維新を成し遂げることは「天命」なのだとそして、それを成し遂げる為に生かされているのだと言うような放送内容だったように受け止めました。

私も「生かされている」という事と、「天命」という事に当てはまることがあります。私は何度も死の危険を逃れて生かされてきました。助けられてきたと言ったのが良いのかも知れません。中学生になるころまでに5度も溺れているからです。私は利根川のそばで生まれ育ちました。子どものころは川遊びをして過ごしましたので当然のように夏は川遊びをしました。そのためにほとんど泳げないのに仲間と一緒になって遊び溺れてしまったのです。

溺れるという水難事故から助けられた二つの経験

自転車ごと夜の川(水路)の中へ落ちる

その中で決定的なのは2度あります。夕方うす暗くなって買い物に行くのに自転車で出かけました。小学生の私には、大きな自転車は三角乗りしかできないのでした。昔の自転車はハンドルとサドルを一本の棒で繋がっていたのでペダルと結ぶと逆三角形の形が出来ます。それでその三角の中に足を入れてペダルをこぐので三角乗りと言っていたのです。

家をでて二つ目の橋を渡っていた時に突然、橋から落ちてしまったのです。夕方暗くなっていたので、橋の端が良く分からなかったのだと思うのですが足は左側から入れての三角乗りで進行方向左側にそのまま落ちたのです。川(水路)は夕方で満潮でしたので水路5メートル前後の橋です。真ん中が少し高くなっていたと思います。その中央を過ぎて気付いたと気は落ちて水の中でした。

ところが、すぐに引き上げられたのです。間髪を入れずにです。私は水の中に落ちた時に自転車ごと落ちて、自転車が私の上に乗っかった形で水の中に落ちてしまったのです。落ちた所に、舟で洗い物をしてる近所のおじさんがいたのです。そこへ、落ちたのですぐに引き上げて頂いたのです。

もし、その時に洗い物をしている近所のおじさんがいなかったらおそらく水ん中で自転車が上の乗った形で水死していた可能性はあったと思います。まさに幸運でした。

利根川の深みにはまり先輩二人の協力により救出される

もう一つは、2つ年上の先輩と一緒に利根川の向こう岸へ船で遊びに行った時でした。その場所は、利根川の本流と水路が合流する利根川の合流部分で泳いでいた時です。傍でリールで釣りをしている人が引っかかったので取ってくれと言うのです。当然につりは水路との合流点に居るので利根川の沖合に向けてリールを放って釣りをしています。

それで、私たち三人は釣り糸を辿って水路から利根川の本流の方へ川の中を歩いていきました。突然足元が無くなって三人とも深みはまりました。場所が場所だけに引き潮の時期でしたので川下に向けてゆったりと流れています。水路からの水も利根川に向けて流れ込んで沖に向かって流れています。

深みに落ちた私たち三人は必死に泳いで岸に向かって泳ぎましたが、水の流れと逆に泳がないと岸に進めないのです。私は必死に泳いでるのですが前に進まず何とか現状を維持している状態です。一人が足の届く所まで泳ぐことができ、すぐに乗ってきた舟の竿だけを持って来て助けに来ました。

二人目の先輩と私が必死で泳いでいましたので、その二人目の先輩が竿だけに捕まり、そしてその後ろにいた私に足を延ばしてくれたのです。その足のかかとに捕まって私も一緒に引き上げて助けられたのです。

それは自力で泳げる限界でした。そのタイミングで伸ばしてくれた足のかかとに捕まる事が出来なかったとしたら、沖の方へ流されて溺れてしまったと思います。幸運でした。助かったのは先輩二人のお蔭です。

度重なる水難事故より生還する理由は「天命」があるから

このように、度重なる水難にあいながらもそのたびに助けられるのには何か意味があるのだと常々思っていました。ですから、昨日の「西郷どん」の天命のセリフを聴いたときに、はたと心に響くもんを感じたのです。私も生かされてきている、このような度重なる死の危険から助けられていることで、何か使命があるのではないかと思うようになっていたのです。

「天命」は天から与えられた命令のこと。天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと。また、人がこの世に生を授けられた因となった、天からの命令の事である。(Wikipediaより)

「使命」1.使者として受けた命令。使者としての勤め。「特別な使命を帯びる」2.与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務。「教師の使命」(GOO辞書よ)

私はまだ「天命」もしくは「使命」しても明確にはなっていません。人は誰でも「天命」もしくは「使命」を持っていると思います。ただそれを、理解しているか明確に認識してとらえているのかについては個人差がある様に思っています。

では、どのように「天命」なり「使命」を見つけ出すのでしょうか?それは今を生きる事です。自分の魂の声に従って今を精一杯生きる事です。

「今を生きる生き方」が天命に生きるに繋がってく

大切なのは「今を生きる」という事です。私たちの時間の感覚にも影響してくることですが、時間の感覚をどのように理解されているでしょうか?私は「永遠の今」と理解しています。現在という「今」の瞬間が存在しているのではないでしょうか。だとすれば、なおのこと「今」を一生懸命に生きる事が大切になってきます。そして、その生き方の中で他者の喜ぶことにフォーカスすることがポイントになるように思います。