聖書の中に
「 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第1コリント10:13)
礒一明の『魂の目的を知れば、人生はうまくいく』の中で、私たちの魂は成長するたっめに生まれてきて、魂の目的を一人一人が持って今世に生まれて来てるのだと。私たちが経験する試練は、スピリチュアル的に見ると魂の成長のためであると言いいます。生まれる前に神様と青写真を作ってどのような人生を生きるかを決めて来てるのだと言うのです。
とすれば、今世の試練も魂的にみれば織り込み済みで魂の成長のためであると理解できます。ですから、この試練のなかで魂の成長という視点から見直すときに、試練そのものも受け止め方が変わってきます。何を私はこの試練を通じて学ぼうとしているのか、自ら設定してきた課題をクリアできているだろうか、充分に学ぶべき課題を学んでいるのかと。内観し、自問することが出来るようになります。試練という課題を客観視できるようになり、そのなかにある自らの学ぶべき課題はなんであるのかが見えて来るのではないかと思うのです。気づく事が出来たら、その時は卒業の時である。スピリチュアル的には「気づき」が出来た時点でクリアできるようですから。
宇宙は私たちを試練によって魂の成長をさせようとしておられるのであって、試練によってだめにしようとしてるのではないのだと知る事が大切です。経済的なブロック、苦しみを負ってる場合でもそれは自らが選択して計画して現世に生まれてきている。それは、魂の成長のためなのだと。「そうなんだ」そいう事なんだと今は思っています。
聖書は試練について明確に語っています。耐えられないような試練は与えないと。ですから、逆に試練があるという事はその試練を乗り越えられる課題として神はお許しになられたのだという事ですから、解決はあるのだという事です。必ず、その試練に耐える事が出来ます。
そればかりではなく、逃れの道をも備えてくださっていると言うのです。神の本質は愛そのものです。スピリチュアル的に言うと宇宙も同じ存在なのだと思いますので、愛の存在であります。試練の背景には神の愛があるのだと、ゆえに、試練の中にほっておくこと、滅びに至らせることではないのです。神の愛によって生かされているのですから、今ある試練も乗り越えられるのです。