ルルです。今日もサイトにおいでくださりありがとうございます。

今日は、「誰もが辿る道」について思う事を書いてみます。私のいとこが46歳と言う若さで逝ってしまいました。二人の子どもを残してのあまりに早い旅立ちに気持ちのやり場がありません。身内の人にとっては悲しみが癒えることはしばらくないと思うのです。

今日の「誰もが辿る道」とは、いつであるのかはわかりませんが天に帰っていくことを意味します。人は誰であっても、その日が、いつであるのかを知ら無いのです。だからこそ、今というこの瞬間が大切なのです。明日があると思うのも良いでしょうが、果たして明日と言う日はあるのでしょうか?

有るのは今という現実があるのだと思うのです。

だから、今を大切に生きる生き方が明日と言う日を創りだしていくのだと思っています。私の潜在意識が宇宙意識と繋がるとき素粒子の海が心の中に広がってゆくようなものなのではなかろうか。宇宙に満ちてる素粒子がひとたび意識が向けられると物質化が起こるのです。

果たして意識に時間と言う感覚はあるのだろうかと問いたくなります。意識は過去の世界にゆく事ができますし、想像すれば未来の世界にもゆく事が出来ます。そのような事を考えると意識は「時間」というものの支配を受けないのではと思うのです。

話がそれてしまいましたが、人の肉体は限りがあります。肉体の死と言う日がやって来るのです。しかし、魂は永遠の存在で肉体の死をもって、肉体から離れて天に帰っていくことになるのだと思っています。誰もがい辿る道であるけれども、その道を行った人はこの世に帰っては来ないので実際の所どの様なのかは正確には分かりません。

しかし、スピリチュアル的に考えると。確かに魂は永遠であると言います。そして、輪廻転生を繰り返して魂の成長のために何度も生まれて来てその都度、魂の課題を解決するためにこの世の人生を生きるのだと言われています。また、このようにも言われているのですが、人は生まれてくるときに神様と約束して、人生の青写真を決めて生まれてくるのだともいうのです。生まれるとそのことは記憶から無くなってしまうのだそうです。

スピリチュアル的に言うと、全ての人は自分の人生を神様とどの様な人生を生きるのかを決めていると言うのです。目的は魂の成長のためだと言われているのです。

いとこのあまりに早い旅立ちに、スピリチュアル的に見ると、彼の魂の学びを終えられたのだと考えることも出来るし、この早すぎる旅立ちも実は、神様との約束で自ら決めて来たというとらえ方も出来るのです。

そして、同じくスピリチュアル的にみると、残された二人の子どもたちも生まれてくるときに、両親を選んで生まれて来てるというのです。ですから、子どもたちは子どもたちで自分自身の人生設計を神様と決めてきているのです。

このようにスピリチュアルの世界では大方このような理解の仕方の様です。現時点での私の理解であります。

聖書の中に生まれつき目の見えない人がいて、イエスに尋ねるのです。「この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したためですか?それとも両親が罪を犯したためですか?」イエスは答えられて「このひが生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したためでも、両親が罪を犯したためでもありません。ただ神の栄光が現れるためです。」そして盲人を癒された。

以上の様な事が記されていますが、「だだ神の栄光が現れるためです」というこのイエスのことばはスピリチュアル的理解に何か通じるように思わされます。

今日は、人は誰もが辿る道について書いてみました。いかがでしたでしょうか?私たちは誰も辿る道ですが、そのことをどのように受け止めていくかで人生の生き方に変化が与えられると感じています。自らの人生に希望の灯をとすことができたなら幸いだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。ルルより。